末広通りには、ひときわ目を引く和風の建物の寄席「末廣亭」があります。この末廣亭を中心に、新宿通りから靖国通りへ抜ける小道には、たくさんの飲食店が立ち並んでいます。
この周辺は、観光客でにぎわう歌舞伎町やゴールデン街、思い出横丁とは少し異なり、大人がゆっくりと過ごせる店が多いのが特徴です。
平日でも夕方になると人でごった返している歌舞伎町に比べ、個性的な飲食店が多い末広通りは、落ち着いた雰囲気。安くて美味しい中華やこだわりのワインバー、美味しい魚介が自慢の店など、筆者も仕事帰りによく立ち寄るエリアです。
では、末広通りはどのようにして今のような飲み屋街となったのでしょう?
江戸時代から現在まで、街の歴史をたどりながらその魅力をひもといていきましょう。
まずは、歌舞伎町との違いを見てみましょう。
歌舞伎町と末広通りの違いは?
新宿の代表的な繁華街といえば「歌舞伎町」を思い浮かべる方が多いでしょう。ホストクラブやキャバクラ、観光客向けの派手な店が多く、夜遅くまでネオンがきらめくエリアです。
一方、末広通りは、同じ新宿でも異なる雰囲気を持っています。 観光客が少なく、地元の常連が通う落ち着いた居酒屋やバーが多く並ぶ、いわば“大人の隠れ家”的な飲み屋街です。
同じ新宿にありながら、歌舞伎町と末広通りは性格のまったく異なるエリアとして認識されています。
末広通りの歴史とは?
その歴史は古くは江戸時代まで遡ります。
江戸時代
末広通りがある地域は、かって、甲州街道(現在の国道20号)沿いの宿場町「内藤新宿」として栄えました。内藤新宿は、日本橋を起点とする五街道のひとつ 「甲州街道」の第一宿場町 であり、江戸からの旅人や商人が多く集まる場所でした。
この宿場町は、旅籠(はたご)や飲食店が立ち並び、遊郭もあったため、江戸の人々が気軽に遊びに来る繁華街としても発展。特に新宿二丁目付近には、当時の「新宿遊郭」が存在し、今の末広通り周辺も大人の社交場としての役割を担っていました。
明治時代から昭和初期まで
明治時代に入り、1885年に日本鉄道の「新宿駅」が開業すると、交通の要所としての地域の発展がさらに強まりました。末広通り周辺にも商店や飲食店が増え、1951年には「新三親交会」として商店会が発足し、現在の末広通り商店会の基盤が築かれました。
大正時代に入ると、新宿の繁華街はさらに活気を増し、1921年(大正10年)に寄席「新宿末廣亭」が現在の場所に移転しました。これにより、末広通りは **「伝統芸能と飲食が楽しめるエリア」**として発展し、多くの文化人や芸能関係者が訪れる場所となりました。
昭和初期には、新宿が東京有数の娯楽・歓楽街へと発展していきます。末広通り周辺にも映画館、カフェ、飲食店が増え、戦前の新宿の主要な繁華街のひとつになりました。
戦後(昭和20年代)
第二次世界大戦後、新宿は焼け野原となりましたが、末広通り周辺は戦後の復興とともに、再び歓楽街としての賑わいを取り戻しました。
昭和26年頃までは、赤線地帯(公認の遊郭エリア)があり、飲食や娯楽を楽しむ場として多くの人が集まる場所となりました。
しかし、1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されると、赤線は廃止され、末広通り周辺は歓楽街から「飲食街」へと大きく変化しました。この時期から、現在のように「大人が落ち着いて飲食を楽しむ街」としての再生が進んでいきます。
昭和後期から現在まで
昭和後期から平成にかけて、末広通り商店会の活動が活発になり、地域の飲食店が支え合いながら発展を続けました。居酒屋、老舗寿司店、バーなどが次々と開業し、新宿の隠れた名店が集まるエリアとして知られるように。
「常連が通う静かなエリア」という印象が強かった末広通りですが、近年は若い世代向けの店も増え、飲み歩きスポットとして人気が上昇しています。
「歌舞伎町のような派手な街は苦手だけど、落ち着いた雰囲気の居酒屋やバーで飲みたい」という人にとって、末広通りはぴったりのエリアです。
現在、新宿の再開発が進むなかで、末広通り周辺も少しずつ新しい風が吹き込んでいます。昔ながらの居酒屋に加えて、おしゃれなダイニングバーやワインバーも登場し、 伝統と新しさが共存する「大人のための酒場エリア」として、さらなる注目を集めつつあります。
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(YOKOSO新宿編集部 松尾まみ)