三越屋上から歌舞伎町方向を写した昭和27年~30年頃の写真です。左下の道が新宿通りで、正面奥の体育館のような建物は東京スケートリンク(新宿ミラノ座)です。
この歌舞伎町エリアは、元々は「大久保」の名の由来となる窪地の湿地帯と元大村藩主大村氏邸があったところです。
明治以降は鴨場となり周囲は閑静な山の手の住宅街として大臣や軍人の邸宅がある高級住宅街でした。
1920年(大正9年)には、この地に東京府立第五女学校(現在の東京都立富士高等学校・附属中学校)が創設されました。
女学校があったり、閑静な高級住宅街だったなんて、今のネオン煌めく国際色豊かな歌舞伎町の姿からは想像もつきませんよね。
さらに1932年(昭和7年)には、東京市淀橋区に編入され市街化が進んでいきます。
ところが1945年(昭和20年)3月、東京大空襲によりこの辺りは一面焼け野原と化してしまいます。
戦後の都市計画により「歌舞伎の演舞場を建設しアミューズメントを中心とした一大商業地を建設する」という復興事業案がまとめられることになりました。
その復興事業では、歌舞伎劇場の他、映画館、演芸場、ダンスホールなどを建設する計画が立てられ、新しい町は歌舞伎町と名付けられました。
しかし、財政の面などから歌舞伎の演舞場は作られることはなく、歌舞伎町の名がそのまま残されました。
これが歌舞伎座がないのに歌舞伎町と名付けられた由来です。
(YOKOSO新宿編集部)